生涯に約500社の企業・約600団体の慈善団体を設立した、渋沢栄一の経営マネジメントの秘訣。
- 渋沢栄一とは:日本の近代資本主義をつくった人
- 生涯に約500社の企業・約600団体の慈善団体を設立
- 渋沢栄一の起業方法
- 日本橋茅場町の渋沢オフィスに日参り
- 出資金はどうしていたのか?
- 数々の失敗したビジネスもある
- 有名な失敗例は「小笠原での藍栽培ビジネス」
- 軌道に乗るまでに10年以上かかった「東京ガス」
- 渋沢栄一が考える「ビジネスの必要条件」
昨年、渋沢栄一に関する経営本の執筆をお手伝いしました。
たまたま私の実家の田舎が渋沢栄一と同郷の埼玉県・深谷市。深谷駅前には渋沢栄一の銅像が立ち、小さい頃から、「渋沢栄一」という名前は知っていました。
しかし、歴史の教科書で覚えるような「日本資本主義の父」ぐらいにしか思っていなかったのです。恥ずかしながら。。。
執筆するにあたり、埼玉県にある渋沢栄一の生家や資料館の訪問、関連書籍の読み込みなど、渋沢栄一の生涯や考え方などを深めていきました。
自分で経営者のようなことをやり、あらためて渋沢栄一のことを調べていくと、
渋沢栄一というのは、なんともスケールの大きな人だ
と何度も感じました。
ここでは、渋沢栄一に関して、企業の経営、特に「創業時」に役立ちそうなものを紹介したいと思います。
渋沢栄一とは:日本の近代資本主義をつくった人
渋沢栄一のことを簡単にご紹介すると、wikiには以下のような概略が載っています。
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。
ちなみに、今度の1万円札の紙幣の顔になります。
生涯に約500社の企業・約600団体の慈善団体を設立
渋沢栄一のすごさを感じる点として、設立等に関わった企業数があげられます。
いくつもの会社を経営している人というのは、現代でもいらっしゃいますが、何百社というのは、規模が大きすぎて、さすがにほとんどいないと思います。
渋沢栄一が設立に関わり、現代でも活動している会社がいくつもあります。たとえば、
- みずほ銀行
- 東京ガス
- 東京海上火災保険
- 王子製紙
- 太平洋セメント
- 帝国ホテル
- 東京証券取引所
- キリンビール
- 東京急行電鉄
- 石川島播磨重工業
などなど。いわゆる大手企業が多いです。
渋沢栄一の起業方法
こうした企業の、渋沢栄一の起業手順を見ていくと、以下のようなやり方がわかってきます。
- 自分と一緒に出資する人(株主)になってくれる人を見つけ、経営陣に引き込む
- 責任感が強く高潔で、会社を任せて安心な人を専務取締役として据える
- 新知識を身につけた若い技術者を、大学からスカウトして、一年ぐらい欧米に勉強に行かせて技師長にする
- 第一国立銀行(現在のみずほ銀行)からお目付役を会計係として送り込む
ワンマン経営のような印象がありますが、実際には、「学歴や経歴を問わず、幅広い人脈からこれぞと思った人材を数多く登用し、多数の経営者たちとビジネスを切り盛りしていた。」ということです。
日本橋茅場町の渋沢オフィスに日参り
当時、渋沢栄一は、日本橋茅場町に、個人事務所を構えていました。ちなみに、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)も、その近くにあり、現在の東京証券取引所の隣あたりに、創業の碑的なものがあります。
設立した企業の経営陣は、毎日、その日本橋茅場町の渋沢オフィスを訪ね、経営状況の報告や検討事項の協議を行っていたそうです。一社あたりの割り当て時間は短く、1日に何社もの予定が入っていたと言います。
なるほど、こうすれば、一度に何十社の経営(と言うか、むしろ経営管理)ということが可能になりそうです。
出資金はどうしていたのか?
ここで一つの疑問が。
渋沢栄一は、会社設立のお金をどのようにして調達していたのか。
今でこそ、一円で会社設立というのができ、初期に過大な投資を行わないビジネスも可能になりました。渋沢栄一が設立した会社を見ると、いわゆる重厚長大型の事業が多く、最初に工場や施設など、大きな投資が必要となります。
渋沢栄一の家は、埼玉の豪農の家で、一般の人と比べれば、裕福な方でした。しかし、それでも、これだけの企業を起こすお金までは持っていないと思います。
調べると、以下のような資金作りをしていたそうです。
会社を作り、ある程度成長したら、東京証券取引所に上場させます。
渋沢自身が所有する、その会社の株を、放出して、お金を作る。
そのお金で、次の企業の設立する。これを繰り返す。
渋沢栄一が初期の頃に設立した、第一銀行、日本銀行、浅野セメント、磐城炭坑、王子製紙などの企業は、いわゆる「優良株」で、これらを積極的に売却し、「設立した会社の自らの支配を強化するよりも、新たな会社の設立原資を得ることに優先していた。」ということです。
数々の失敗したビジネスもある
数多くの企業を設立し、すべてうまくいったかというと、そういうことはなく、失敗した企業もあります。
有名な失敗例は「小笠原での藍栽培ビジネス」
渋沢栄一の生家では、藍玉(藍染に使う染料)ビジネスが盛況で、一家は周りの農民と較べると、かなり裕福でした。
そのような藍玉に対する、渋沢の思入れがあるのか、「小笠原で藍を栽培する」というビジネスが、渋沢のところに持ち込まれると、すぐに起業させ、栽培を始めました。
ところが、事業がうまくいかず、何年かして、清算したそうです。
軌道に乗るまでに10年以上かかった「東京ガス」
また、失敗ではないですが、
西洋では普通に使われていたガスを日本でも使えるように、ガス供給会社を興したものの、当時の一般生活者には、ガスを使う設備がまだまだ普及しておらず、またガス代も高いことから、事業として成立するまでに非常に時間がかかった、ということです。
渋沢栄一が考える「ビジネスの必要条件」
渋沢栄一が、事業を始める時に、基準にしていたものがあります。
それは、以下の4つです。
- 道理正しいかどうか。
- 時運に適しているかどうか。
- 人の和をえているかどうか。
- 己の分にふさわしいかどうか。
渋沢栄一は、自らの利益よりも、社会の利益を重視していたと言います。
今でこそ、CSV(Creating Shared Value)のような、「社会のためにビジネスを考えよう」という新しい考え方が、一般化してきています。約100年も前の日本の大企業家が、すでにそういう考え方に近い思想を持っていたというのは、私的に驚きでした。
同時期の企業家は、財閥を作り、財閥内に企業を囲い、自らの財産を増やしていきました。当初、私が思い描いていた渋沢栄一のイメージも、そんな感じでした。
実際の渋沢栄一は、財閥を作らずに、会社を作っていく。そして、海外にはあって日本にはまだないビジネスの企業を次々と設立していく。それが日本の社会がよくなるための基盤にしていく。
渋沢栄一が行ってきたことをロールモデルとして見ていくと、これから起業を志す人、あるいは企業運営に関わっている人へのヒントがいろいろ見つかると思います。
余はいかなる事業を起こすにあたっても、利益を本位に考えることはせぬ。この事業は起こさねばならず、かの事業は盛んにせねばならずと思えば、それを起こし、関与し、あるいはその株式を所有することにする。
by 渋沢栄一